ロレッタブログ

絶望だって分かち合えば希望に変わる - 2019.01.18

先週はaktaでのギャラリートーク『居場所、つながり、新宿二丁目』にいってきました。

→●新宿2丁目で「家族」をやり直して ”へその緒”を断ち切ってたどり着いた居場所

トークゲストは熊谷晋一郎さん(東大准教授)、ジャンジさん(akta)、中村うさぎさん、そしてこうき君。

熊谷晋一郎さんは、生後間もなく脳性麻痺により手足が不自由になりました。「愛情で人は殺される」と語り、障害があるにも関わらずご実家ではなく、一人暮らしを選択しました。その後、小児科医としても病院に勤務。現在は東京大学先端科学技術研究センター准教授でもあります。愛情に事欠かない環境でも、生き難さがないわけではなく、むしろ愛情関係があるがゆえの苦しさも抱えてしまう。
熊谷さんは「依存症というのは依存先が一つしかない状態」と語ります。

買い物依存症、整形依存症、ホスト(恋愛)依存症を経験した中村うさぎさんは、数年前に大病と3回の心肺停止。その後の車椅子、リハビリ、杖と介助なしでは生活できない日々から「私にはむしろ依存先がなかったのではないか。自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。依存症に苦しんでたら、共存という新たな道がみえてきた。」とかたります。

熊谷さんは相模原障がい者施設殺傷事件に関する各媒体でのインタビューなど、人権派の先鋒的なイメージが最近ありますが、それだけではないのは「リハビリの夜」を読めばよくわかります。名著!!!必読!!!私も障がいを持つ友人が何人かおり、熊谷さんの記事を送ったりしていたのです。一度ぜひご本人からお話を伺いたかったので、今回は最前列で聞いてきました。

リハビリの夜/熊谷晋一郎

痛いのは困る。気持ちいいのがいい。
現役の小児科医にして脳性まひ当事者である著者は、あるとき「健常な動き」を目指すリハビリを諦めた。そして、《他者》や《モノ》との身体接触をたよりに「官能的」にみずからの運動を立ち上げてきた。リハビリキャンプでの過酷で耽美な体験、初めて電動車いすに乗ったときのめくるめく感覚などを、全身全霊で語り尽くした驚愕の書。

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→●絶望だって、分かち合えば希望に変わる。熊谷晋一郎さんが語る「わたしとあなた」の回復の物語

→●それでも、他者とつながり生きる。脳性まひの医師の

→●自立とは「依存先を増やすこと」

 

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私たち人間は、この世に生まれたその瞬間から、食事も排泄も自分では全くもってままならない、あまりにも無力な、依存しなくては生きられない存在としてスタートします。その後は自立を目指すのが成長の順当な運びと思われています。確かにそれは間違ってはいないのですがが、実はその次に、自分軸でありつつも周囲に頼り頼られる、つまり他者との共生、相互依存というステップがあります。

念のため言っておくと、共依存とは違いますよ。これを頭でっかちではなく、実体験で血肉にしていけるのが望ましい成長だと思う。到達するのが最も難しいところだけれどもね。自分を肯定できない人には、特に難しい。

というのも、この共生や自立よりもはるか前の依存時代に誰にも頼れず(という本人の思い込みも含めて)辛くて頑張って自分に自分で鞭打つように自立すると、心の中に澱のように大量に沈殿した依存心が、自立(しているつもりの)時代に何かの拍子に噴出してくるから。コミュ障といわれるほど性格に難があったり自意識過剰だったり、なにかしら生きづらそうな様子を抱えている人は特にその傾向が強いように感じます。

誰だって自分が健康で調子のよいとき、お金の羽振りがよいときは他者に寛容でいやすいのですが、肉体的にも精神的にも、思わぬ事故や災害などで障害を抱えたり、経済的に困窮する可能性はあるでしょう。先日も私の友人が交通事故で頸椎と胸椎と顔面骨折し、長期入院を余儀なくされました。先天性障害児として生まれた友人は、原因不明の疾患の発症が続き、毎年2回も3回も外科手術を繰り返しています。脳梗塞で左半身麻痺で車椅子生活になった恩師もいますし、20代で事故により頸椎損傷のために首から下が全麻痺になった知人もいます。女性は妊娠・出産・育児でも、社会的に生きづらさを感じることが多いでしょう。子供が障がいをもって生まれたら、それこそつきっきりになることがほとんどです。親や義親、家族の介護生活でもそれは同様です。

好むと好まざるに関わらず、我々は人生100年の長寿時代に突入しており、それはつまり誰もが避けようのない加齢により、目が見えづらい、膝が痛い、腰が痛い、肩が動かない、こわばる、物覚えが悪くなるなど程度の差こそあれ、軽度障がい者になることを意味します。

金銭を介せば全てがコントロール可能なように思いがちな資本主義の現代。核家族化、地域の繋がりの希薄化など、人が欲するものを全て金銭化していく資本主義というシステムが進みすぎて、むしろ人と人とが繋がりづらくなっているようにも感じます。SNSは便利だけれど、繋がり下手な人も増えているように思います。本来、家族や夫婦は、病むとき貧しきときのセーフティネットであるはずなのに、それがもはや機能していないケースは珍しくありません。むしろ相手が困ったり弱っている時にこそ、ここぞとばかりやり返す権力闘争の場と化している家庭は少なくないのではないでしょうか。それほどまでに普段からコミュニケーション不全状態なのだと推測する。

お金は大抵のものと交換可能なので便利ではあるけれど、実際にはいくら貯金があっても、もしハイパーインフレの時代がくれば、お金の価値はみるみる下落し、銀行口座は凍結され、本当に経済がたちゆかなくなれば、多少の貯金など何の役にも立たなくなるのです。その時に結局大事なのは人間性であり関係性。人という生き物は、共同に暮らし、相互扶助して生きていく動物です。どのような仕組みなら、人が協働かつ共同的にお互いが尊厳をもって暮らしていけるかを今一度再考したい。

我々はつい仕事偏重になりがちで、また仕事というものを家庭や友人関係を疎かにする大義名分にもしがちですが、本来は仕事以上に友人や繋がりを大事にするほうがよいのです。社会や情勢が不安定になればなるほど、人間の繋がりこそがセーフティネットになるのだから。

生まれた家庭は選べないし、上司も部下もなかなか選べないものですが、それ以外の主体的に作ることのできる自分自身の家庭、夫婦、友達、プライベートで関わる全ての人間関係をいかに、どのように選び育むかが人生の充実度を左右します。誰と関わり生きていくのか、よくよく考えて、自分のために選んでいきたいですね。