ロレッタブログ

美容整形して可愛くor美人になって性格が悪くなる人はいますか?<つづき> - 2019.02.12

昨日のつづき。

生きづらそうな様子がどんな風かというと、たとえばこんな感じです。

  • 「私が不幸なのはブスなせい」と整形を繰り返す醜形恐怖症の人
  • 財力しかマウンティングできるものがないのでひたすら貯蓄に励んだが、お金が貯まって時間ができても共に過ごす人がいない人
  • 「老醜をさらすぐらいなら若くてきれいなうちに死ぬ」と決めている人
  • 「私は綺麗すぎて高値の華なの」とモテない現実否定と自己欺瞞に拍車がかかる人

いずれも本人が自覚した選択なら「それで良し」なのですが、 どうもその心や生き方が殺伐していて、心の平安は遠そうです。老若男女問わずこういう人と友達になりたいかというと、おそらく多くの人はこう思うのではないでしょうか。「仕事で関わる相手なら仕方がないから必要なやり取りはするけど、いい歳してここまで卑屈な人とはプライベートで繋がるのはちょっとね」と。綺麗でお金も不自由しない程度にあるのだけど、自分を慕い訪ねてくれる人はおらず、気づいたらいつもひとりという、まるでこの写真みたいな孤立生活をしたい人って、本音でどのぐらいいるのでしょうか? 強がりではなくて本音で。

とはいえ、私も気の合わない人の誘いに無理して応じたり社交辞令的な中身のない会話に終始するぐらいなら、一人で静かに本を読むほうがよほどよくて「仕事なら喋る」という程度。2~3か月ぐらい誰とも話さずに過ごしたことがあるぐらい一人が好きだし、自宅好きだし、静かに暮らしたいほうなのです。だから友達も数よりは少数精鋭を望む。つきあいの呑み会には興味はないが、面白そうな人がいる場所やイベントには自分からどんどん足を運ぶ。そしてそれに、とても幸せを感じているし、そういうところで出会える人達とのご縁にとても感謝しています。

植島啓司先生がご著書に記してくださったのですが、私は宝くじも買わないし、懸賞にも応募しないし、ギャンブルもしないので、そういう意味での運はよくわかりませんが、人との出会いの運には本当に恵まれているのです。そしてお金よりモノよりも、素晴らしい人との出会い以上の幸運は無いと思っています。だから私は本当に恵まれているし、すごくラッキーなのです。だから私は私を育て導き刺激してくれるよい方々とのご縁の維持と育みに、限りある時間も頭もお金も使うようにしています。

だから、性格が曲がっていて孤立している人に遭遇すると「それでほんとうによかったの?その曲がったメンタルを修正するターニングポイントはどこかに、いくつか、あったのではないですか?」という思いがよぎらずにはいられない。

これだけ長寿時代になると、家族がいればさみしくないかというとそうではなくて、親はもちろん夫も子供も自分よりも先に亡くなることは十分にあり得る。そもそも子供も自立すれば親とつるみたがることはもうなくて、適度に距離をおくもの。 いつまでたっても親にぶら下がる子供は親にとっては人生最大の負債。 いつまでも他人に振り回され、他人の面倒をどこまでもみてしまうのは優しいようでいて支配欲の裏返しや共依存の現れ。なので、成熟した親は冷静な頭で徹底的にそれを断ち切っています。

せっかく自分の1回しかない人生を年を重ねて長く生きるなら、こんなふうに気楽に話せる友達みたいに外に開いた関係性を大事にしたいですよね。 有限な時間を共に楽しめる友人がいないのはわびしいものです。


社会と言う外界に開かれた関係性の構築は「技術」です。
「パートナーの社会化」とも言われるその技術の習得には、若い頃からのコミュニケーションの訓練が必要で、 いくら綺麗でも裕福で肩書があっても、年をとったからといって急にはできるようにはならないのです。
無駄に我を張ってきていないか、他人に臆病になりすぎていないか、自分をオープンにすることなしに他人をコントロールしようとしていないか、省みる謙虚さをもちたい。そして、もっと一人で外に出ましょう。

美醜と幸せは正比例しないと知ればものの見方は変わるし、通帳の0の数が増えることよりも、 若い頃は想像もしなかった素敵な出会いや考え方ができるようになることこそが懸命に生きてきた大人へのご褒美ともいえる愉しみです。自分の愚かさを認めると他者にも寛容になれて、自分も肩ひじ張らなくてよくなるから楽になったりするもの。自分の弱さを知ると人の器は広くなり、許せることも増えるから。社会的肩書が関係ないフラットな場所での人との出会いは刺激的で楽しいもの。(ただし何でも許せばいいかというとそうではなくて、自分の尊厳を傷つけられたときは、それを守るために徹底的に怒れるのも自尊心だと思う。これも以前ブログに書きましたよね。→●幸せとはまず自分を大切に扱うことがスタート


何もかもが自分の思い通りにならなきゃ嫌だという、ガチガチに肩肘はった自我なんていらない。そんなものよりも強い芯としなやかで柔らかい器を備えた成熟のほうが楽しそうじゃないですか。

そんなふうに 頭ではわかっていても自分の心は一番油断ならないもので、いつのまにか視野は埃をかぶったかのように狭くなりやすいように感じます。
事実を事実として直視するのはつらいし、正論はいつだって耳に痛いもの。でも心に刺さるのはそれが真実であり図星だから。 自己欺瞞やバイヤスにできるかぎり自覚的かつ俯瞰的な視点を備えておく冷静さは、お金や地位や肩書や美という小さな権力の有無で自分をイタイ人にしないための、最重要要素かもしれない。