ロレッタブログ

デヴィ夫人の婚活論<つづき2> - 2019.02.19

昨日の続き。

おそらくそれは、多様性の時代 (みんな違っていていい、それぞれの幸せの形) とは対極に位置する、エリート&タイトル第一主義(誰もが認める肩書、家柄と血筋が序列が支配する閉鎖的な社交界)の世界で比類ない成り上がり(「私は結婚するなら絶対に権力者だと決めておりました」「私は物理的にも経済的にも精神的にも完全に自立しております」)を体現してきた夫人がバラエティ番組で無茶をやってのけるギャップ、そしてそこで見せる天然さが多様性以外のなにものでもないからと思う。だからこの人は本当に無敵なわけ。

その他の理由としては、アベノミクスで好況といわれながらもあまりその配分を得ている実感無く働いている世の女性は、生き方モデルがまるで戦後の焼野原でどっちの方角に歩めばよいのか右往左往する迷える羊化している。そういう女性たちにとって、戦後と貧しさという逆境からのシンデレラストーリーを体現したたくましい夫人に教えを乞いたくなるのはわかる。実はそのストーリーの背景には、血のにじむような努力と継続と負けず嫌い精神があってこそなのですが。

多くの女性は、親や社会からいろんなことを言われ続けて右往左往しつづけるんですよね。学生時代は親から「女の子でも自立できるように勉強しなさい。良い大学、良い会社に就職しなさい」と言われ、社会人になったら「いつになったら結婚するの」と言われ、結婚したら「子供は?」と言われ、産んだら「二人目は?」と言われ、女の子を産んだら「男の子は?」と求められ、男の子を産んだら「女の子は可愛いわよ~」とか言われ、何をやっても投げかけられる言葉が両極端のダブルスタンダード。なので他人の期待に応えることを第1優先してきて、自分の意志をなおざりにしてきた女性ほど戸惑う。

本来は自分の生きたいように生きればよいので、実際にそれを謳う多様性の時代がようやく到来した。しかし、成長過程はわかりかりやすい評価軸で物差すエリート主義で育ったので誰もそんなことを教えてくれず、それ以外の物差しは見たことがなく、いたところで変人扱いされていたりして、そんなリスクをとるよりは言われたとおりに従ういい子でいるほうがまだ気が楽だし、規範を疑わずに歩むことが尊ばれてきた近代では多様を謳っても同調圧力は今だ強いままで、そんな空気感の残る時代で我が道を選ぶ勇気を獲得するほど腹はくくれず、万が一失敗して悪目立ちはしたくないし、言うとおりにしていればくいっぱぐれしないだろうという回避願望もあり、大人になってみたら時代は予想以上に変化が早く、従来の価値観や既成概念がことごとく通用しなくなってきていて「いつだってああしろこうしろと先回りで指示をされて、それに従うことを良しとされて生きてきたのに、今さら自分のやりたいように生きていいよとか言われても、やりたいことなんてないです」と被害者的言い分を口にしたくなる人は少なくないのではないでしょうか。親や先生の言うとおりにしたところで、だれもその責任なんてとってくれはしないし、後始末もしてくれません。思考停止で周囲の期待に応えることを自分のありかたにしてきた人ほど、「多様でいいよ」と言われるときつい時代なわけです。しかし時代は規範と定型順守とは真逆のクリエイティブな才能が歓迎される方向に否応なく動いているというね。

思うに、発展途上国だと健康や安全が満たされない。先進国はモノも金も欲望も飽和状態で多様になりすぎ、「個であれ」といわれながらも実際には同調圧力(みんなと仲良くしなさいの教え)が強いままだと迷える羊化する。メンヘラも増える。多様性のバックラッシュでトランプみたいなのも排外主義も出てくる。だから発展途中国ぐらいが、選択肢も自己決定権もまださほど多くはないけれど、その代わりに与えられる(期待される)役割さえまっとうしていれさえすれば大多数の人はそれなりに生きやすいんでしょうね。それ以外の役割を開拓したい人にとっては息苦しいけどね。

話がそれますが、よくロストジェネレーションを「失われた世代」と訳しますが、あれは「人生で迷っている世代」ではないのかしら・・・?「失われた」のほうがまるで予め約束された何かが存在していて、しかしながら図らずもそれが消失してしまった的な詩的な意味が付加されて雰囲気は出るのだが、世代的に指す意味は「旧来の価値観が通用しなくなり迷走している」とか「途方に暮れる」の意味のほうが近いんじゃないかと思います。「失われた世代」という文字を見かけるたびに、どうもこれ違うような・・・?と毎回気になっています。

話戻って。そういう時に、強く「こっちよ!」と導いてくれる人が欲しくなるのは当然。不安な時にたかって高額なお布施を要求する宗教、スピリチュアル、自己啓発セミナー、身体やお金目的の男とかにはまるとかはありがちですが、それよりも極端なぐらいポジティブでめげない夫人に元気づけられるほうがよほどましな気がします。(笑)

更に女性として見逃せないのは79歳で保つあの美貌!数千万単位の予算が必要だろうけれど、「私はニットは着ません。人の身体は鋳型にはめておかな、ウエストマークした服しか着ないの。」「私はいつもハイヒール」という美意識の高さとチャレンジ精神はこの年齢にもなると生命力の強さの現れともいえる。

「あれは嫌い」「これは嫌」「あの人にこんなことされた」「あんなことされた」とばかり口にするのって、周りもつまらなくさせるし、無駄な我と回避に満ちれば満ちるほど一番腐っていくのは自分です。愚痴が多い人ほど口角もさがっているので、美はおろかラッキーやハッピーからはますます縁遠くなります。 他人を怨んだり貶めたりするのがまさに自分らしいし、そのほうが未来が開けるし受け入れてもらえると思うならそうすればいいと思います。 自分がそれを選んだという自覚に基づいて。

「どちらの世界の住人になりたいか?」と問われたら、ロレッタのお客様は「せっかく同じ1日を過ごすなら、自分にとって意義のあること、世の中の何かや誰かの役に立つこと、充実や喜びに繋がることに使いたい」と答えるかたが圧倒的多数かな、と感じています。そういうお客様にご支持いただけるのは本当に嬉しく光栄なことです。これからもぜひ、やりたいこと、好きなことはもちろん、苦手なことだって臆さずチャレンジしていきましょうね!

「他の人にできることが、わたくしにできないはずないわ!」わたくしのモットーは「何にでも挑戦すること」。だから同じ人間なのに、あの人にできて、わたくしにできないなんて! と気持ちが高ぶってくるのです。

「絶対に無理」と思っていたものができたときの充実感と達成感に比べたら、怖さや恐ろしさはなんてことないわ。やり遂げた後はまた何かチャレンジしたい気分になるの。それに苦しい仕事を終えて、夜に飲むシャンパンは最高だわ。こういう経験がわたくしを大きく強くさせているのです。

「世の中が悪い」「自分は不運だ」なんて逆恨みをするのではなく 、どんな境遇で生まれたとしても、自力で勉強して這い上がり立派に暮らしている人はたくさんいらっしゃいます。もし、自分を不幸だと思うなら、さらに不幸な人を思いなさい。そして不幸を抜け出す努力をするのです。