ロレッタブログ

マウンティングやパワーゲームは一抜けしましょう<つづき1> - 2019.03.20

昨日のつづき。

人は自分にメリットがあることしか続けられない生き物なので、その人なりの価値観と正論はあるんですよね。

そういう人を支えているものの見方や解釈、認知、認識の枠組みの転換(パラダイム転換)というのは、よほどのことがないと実現しえませんし、また、それをしないまま人生を終える人の方が多いように思います。

だから我々にできることは、こういう人たちの優劣競争に参加するとあちらの思うツボなので、 消耗する人間関係からは静かに遠ざかる、という行動なのです。こちら側が「専門家のカウンセリングを受けて、自分の心の中を一度整理してみればよいのに」「アンガーマネージメントでも学びにいけばいいのに」と思っても、本人が今の思考と生き方に困難を感じて自らカウンセラーの元を訪れなければ無意味ですし。

とても切なくやりきれない事実なのですが、心の土台が傷みすぎている人に対して、周囲ができることはそんなに多くないです。

自分の思うように動いてくれない出来事や起きたことを他人のせいにしつづけて、 周囲を攻め立てて、いつもうっすら怒って生きて自分の人生を台無しにするのは、誰だってやろうと思えばいくらでもできます。だからそれを実行する人もたくさんいるわけですよ。 そういう人たちは「自分はそうするしかないんです」的なことを決まって口にするけれど、ターニングポイントのたびに孤立と不幸へ歩を進めることを本人が選択しているのです。 そういう自分のことすらも嫌いな人達で、でも変えられない(変える気がない)から、そのイライラを他人に八つ当たりしたくなるのだと思う。 本人がそのありかたにメリットを感じている限り、5年経とうが10年経とうが、20年経とうが、人は絶対に変わりません。

そういう人に遭遇するたびに、私は芹沢俊介氏の「自分のことが好きであれば、理由もなく人を攻撃するといったふるまいに出ようなどという発想は生まれようがない」という一説を思い出さずにはいられません。 私は自己充実のためのチャレンジを恐れない勇気の先に幸福があると考えますが、こうした現象からは、この世には競争と見下しあいの先にある不幸が性に合う人もいるのだということを学んでいます。

何が最も憐れかというと、こういうタイプの人はおそらく過去に何者からパワーゲームをしかけられ、敗北感を味わった人達だと思うから。だからといって、かつて自分を深く傷つけたくだらないゲームに、自ら再び勇んで参加する必要はないわけですよ。もしかすると当人はリベンジのつもりかもしれないけど、くだらない人達の相手を自分までくだらなくしてまで続ける必要はない。

思うに、いろんな言い訳の薄皮を剥いでいったところにある本音は「自分は敗北者。だから自分よりもっと弱い人間を見つけて劣位を定めないと、自分の気持ちのもっていきどころがない」ではないでしょうか。平たく言うと、メンタルが弱い。

だから他人が欲望する「幸福そうにみえる各種スペック」を集めて少しでも優位に立とう必死にあがく。勝ち負け・優劣・上下にこだわっている限り、負けを恐れる不安にとらわれ続けてしまうのだから、そんな風に生きてきた結果、充実感や幸福感と縁遠いのは当然です。

そういうありかたを選択してどうも充実感とは縁遠そうで幸薄そうなようすの人を見るたびに、 むしろ本当に勿体なく気の毒に思います。 大変なのは自分だけじゃないのにね。 否定や対立や上から目線からではなく、横から目線でそう思うし、胸がキュッと痛くなります。しかしこちら側には理解ができない苦しそうなあり方でも、その人なりにある意味においての居心地の良さや安心感があるからこそ、そちら側を選択しているはずなのです。

結局、誰も他人は変えられません。自分できることは、自分の心を落ち着けて明るく整えて、自分の幸せと充実に日々淡々と集中することだけです。それを見て何かを気づく人は自発的に変わっていくかもしれないけれど、それも相手が決めることです。変わるのも自由、変わらないのも自由。

相手の自由を尊重することは、相手の領域を侵犯しないことです。自分にできることと、相手のやることを冷静に分離して、 淡々と自分のことにマイペースで集中しましょう。これは己の力の及ぶ範囲と限界を十分にわきまえているからこそできる線引きであり判断です。そしてそれは生きていくうえで、他者を尊重しているからこそできるとても大切な判断であり寛容さだと思います。

つづきは明日。