ロレッタブログ

60代からの急激な衰弱<つづき3> - 2019.07.23

きのうの続き。

自然界では『歩行不能=死』を意味します。 古い個体は、生命維持に欠かせないパーツからどんどん弱るんです。 厳しい事実ですが、自然界での野生動物としての生存競争はそんなに甘くはないのです。

去年の私みたいに、 人工的に根元から骨折させて継ぎ直す外反母趾手術は、両足を切断して歩くことすらできない状態なわけで、野生の世界ならとっくに補食されて死んでます(笑)。これまで右肘も左上腕骨も骨折したし、肋骨も2回折り、フィガロに噛まれてパスツネラ症になり、アナフィラキシーも起こし・・・野生なら私はもう何回か死んでてもおかしくないんです(笑)。しかし現代ではその程度のことはもう致命傷にはならない。つまり、人間は生き伸びることが可能になったわけ。

内臓機能が衰えても、延命処置も進化しています。運動器が故障して歩けなくなっても、杖だって、歩行器だって、車椅子だってあります。寝たきりでもフル介助のケアもあります。糖尿病などで足を切断しても、義足もあります。脳が認知症になっても、身体が元気だと徘徊します。身体が動かなくなり全身が麻痺しても、脳が生きていれば点滴で栄養補給すれば植物状態でも生きられるのです。どちらになっても本人も辛いし、周りも大変です。脳と身体の老化のペースがズレるとは、そういうことです。

『歩けない』の意味するところは、トイレに自分で行けないということです。こうなると、美容だの美姿勢だのうんぬんよりも、人としての尊厳の問題です。 老いてからも人間の尊厳を守りながら直立二足歩行を維持して、脳も機能して生きることが肝腎なんです。

社会人になってからずっとデスクワーク。休日も座るレジャーやエンタメが多い方は、70歳になったときの筋肉量は30歳のころの約半分か、それ以下と言われています。つまり、30歳のころの2本足分の筋力が、1本足になるのと同じ。30歳の時点で片足立ちや片足スクワットができなければ、そのままいけば将来転倒するのは確実ということ。

みなさん口では「ピンピンコロリが理想」というけれど、なかなか人間はそう簡単には死なないし、死なせてもらえません。病院に運ばれたら医療従事者は職業的使命感で救命します。私はそのことで医療機関を責めることはできないと思っています。だってニーズがあったから技術が発達したのだから。救える手立てがある患者が運ばれてきて、何も処置しないというわけにはいかないでしょう。

もし病院に運ばれたくなければ、できるだけ病気にならなような生き方をして(←これがそもそも難題!笑)、周りの人に「私が目の前で倒れて苦しんでいても、決して救急車は呼ばないでください。そのまま死なせてください」と言い、外出先で倒れても蘇生処置をされないように、身分証明書に「万が一のときも救命措置は決してしないでください」的な内容を直筆署名入りで記した紙を入れ(なんなら首からぶらさげておくとか?)、さらに弁護士の連絡先も記しておくしかないような気がするが、どうでしょうか?そこまでやっている人、まだまだあんまり多くないとおもうんですよね。中村うさぎさんは、「次に発作をおこしても救急車は呼ばないで」って言ってたらしいのですが、いざ発作が起きて倒れたら、痛すぎて「救急車呼んで!」って言ったらしいので、実際なってみない事には自分の気がどう変わるかもわからないですよね。健康な時と病の時と、生きている時と死にかけた時とでは、考えは変わるよね。

サロンにいると体力づくりの努力をしようとしない親の将来と介護を憂いているお客様はとても多いです。 さらに親の介護で苦労したかたでも死ぬ間際まで自立して生きるための準備を「今、現在進行形でしている人」は驚くほど少ないのが現実です。

もし高齢になっても自立して生活したいのなら『今やること』は、この身体で死ぬ直前まで直立二足歩行で生きるための身体づくりなんですよ。時間は万人に平等。誰でも、今日が人生で一番若いのですから。そして、それに取り組む意欲の源は、未来に繋がる人間関係です。一握りの天才を別として、孤立して元気な老後ほどつまらない日々は無いでしょう。 人間は人とのつながりの中で生きる社会的動物なのですから。 そしてそれは、子どもや孫といった家族という内側にすがる生き方ではなく、広く社会と繋がり関係性を築いていったほうがよいようにも感じます。

洋服は買い替えれば済むけれど、傷んだ身体は着替えることはできません。これはロレッタの創業時からの変わらぬコンセプトです。 6月から、ピラティスをペースアップされるかた。パワープレートをご自宅に設置されるかたが増えてきました。どなたも、これからも元気で健やかな心身を維持して、60歳、70歳、80歳になってからも周囲の人と良い関係を築き、支え合いながら生きていきたいと願っているかたがたです。

「支えてもらって面倒みてもらうのが当たり前」「友達なんていないし、欲しくもないし」「子供が手を離れたから生きてても仕方がない」「趣味も楽しみもなーんにもないです」という人は、とてもこんな風には考えられないのかもしれない。本人がそれで満足しているのならそれでいいのだろうし、一時的に心が疲れてしまっているのかもしれないけれど、その中には立場や権威やお金で、または家族というだけでなんとなく誰かと繋がった気になっている、あるいは繋がった気になっていただけと言う人もいるんじゃないですかね。そんなものは『繋がり』とは呼ばないと思うのだけどね。

どうせ数十年生きるなら「そんなものがなくても、私はあなたと繋がりたいし、あなたに元気で生きていてほしい」と思ってもらえるぐらいの魅力的な大人に仕上がっていたいものです。

一生つきあっていく心と身体はぜひ「まだ若い」とおもえるうちからどうぞ大切にあつかってあげてください。そういうふうに自分のことを大切にできる人は、自分の友人や周りの人もぞんざいに扱ったりしないはずです。 自分の健康や心身のケアは、自分を心配してくれる周囲の人たちへの最大の思いやりですから。