ロレッタブログ

今日のにゃん - 2014.07.04

みなさまにゃん様のことを気にかけてくださってどうもありがとうございます。
二日前から食もずいぶんと細くなってきたのですが、お刺身は食べてくれます。やっぱりおいしそうなにおいに反応します。
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今夜のにゃん。
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いっしょのにゃん。
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土曜日から高知行きの予定ですが、この3日間で急激に容体が悪くなってきているので飛行機はキャンセルしてこちらにいようかな・・・とも考え中です。一回忌とはいえ、そもそも当人は死んでますからね。ご先祖様になった母にお花供えるとか、お墓参り云々や儀式の形に重きを置く人もいるとはおもいますが、一回忌に顔見せないくらいで恨む親じゃないですしね。そもそも死んで一年後に来られなかったくらいで怨恨が生じるような親子ってどうなのかと思いますが。(笑)

あらゆる宗教に詳しかった母に聖書の読み聞かせからエマヌエル・スウェーデンボルグにニューエイジ、神道だの仏教だの写経、四国八十八か所参り、古事記だか日本書紀の絵本版を読んで育ち、祓詞・身滌大祓に一切成就祓に三種大祓に天地一切清浄祓も暗唱(というのでしょうか)するほど憶えましたがまったく宗教心が育たなかった娘。住まいの隣は墓場なのに、何一つも見たことがありません!(笑)むしろオカルトと宗教の明確な違いの定義がなんなのか知りたい今日この頃です。なのに親しい教授に宗教人類学者がいるのも面白い現象ですよね。この質問を次回教授にお会いした時にたずねてみたい。(いやがられそう?)

最期に母に会ったのがいつだか今でもまったく思い出せないのですが、そもそも日付を覚えることにそれほどの価値も意味も感じず。関係や信頼の浅深は日付を覚えている・いないで測れるものではないと思ってるので。反対に、人生のいろんなイベントごとをその都度ごとに憶えている人って、すごなぁと思います。初めて○○に行った日とか、○○記念日とか。自分の誕生日や自分の年齢すらいまいちよくわからなくなる昨今です。
もともと細かい年代や日付を記憶していることに何の価値も感じていない性なのですが、母の命日に限らず家族の年齢も誕生日も、メモしたものを見ればわかるのですが私は憶えていないのです。ちなみに約4年いっしょにいる相方の誕生日も「12月のどこか」くらいしか憶えていません。こういうことって、個人差が激しそうですよね。私の場合はかなり差が激しいほうだとは思いますが。(笑)

親は親でいつか死ぬものですし、死ぬことは決して年齢の順番通りにはいかないものですが、母の死にざまは正に文字通り母にしかできない実に潔い生と天晴な死にざまで、それ以上でもそれ以下でもなくただひたすらに彼女らしいものでした。いずれにせよにゃんの様子次第とはいえ、そもそも私は親が「自分がいつ死んでもこの子はもう大丈夫」と思えるくらいに独立し自立することが真の親孝行だと考え、そのように生きてきたので、日付がどうの、儀式や一回忌がどうのは当事者同士が納得していることであれば大した問題ではない。
そして精いっぱい生きた日々の末に全うされる寿命は、どのように迎えたものであってもそれだけで尊いものです。それは猫であれ、人間であれ。