ロレッタブログ

愚痴の操作性 - 2015.01.19

以下名越先生の著書「毎日トクしている人の秘密/PHP研究所」(←安易なHow to本みたいなタイトルが勿体ない感じですが非常におすすめの一冊)から引用。愚痴は口にする本人はよくても他人を疲弊させます。

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芯のところで信頼感が欠ける人は、しばしば自分の人生を悲観的に捉えたり、軽蔑したりする一方で、他人を責める他罰的、他責的な言動を取ることにもなりがちです。
というのも、自責的な人は自分を責めているようでいて、実は多くの場合、うまくいかないことを人のせいにしているからです。だって、そうじゃなければ、「私の人生うまくいかないんだよね」という愚痴を他人に伝える必要がありませんよね。もし本当に「自分の人生がうまくいかないのは自分のせいだ」と芯から納得しているのなら、愚痴は出てこない。
だから非常に厳しい言い方をすると、「どうせ私なんかこんなもんだ」という自虐を口にする人は、どこかで必ず、自分に嘘をついています。自分をもごまかしているから、嘘をついていることにさえ自覚的でないだけなんです。

その象徴が愚痴です。愚痴とはつまり、周囲へのアピールなんですね。認めて、慰めて、勇気づけてほしい。でも、一方ではそれを先回りして自分で卑下して、防御壁を張り巡らせてしまっている。つまり、本人は気付いていないけれども、「私なんかこんなもんだ」という自虐的な態度が、周囲の人を挑発したり、壁を作ることにつながってしまう。根っこのところでは、明るい気持ちになりたい、勇気づけてほしい、慰めて欲しいという本音があるのだから、「今、ちょっと弱気になってるんだ。ごめんね、話をしたらちょっと気持ちが落ち着くから」と素直に言えばよさそうなものだけど、「どうせ俺の人生なんて」とか、「人間なんて所詮自分のことしか考えてないのよ」といった、ひねくれた表出の仕方しかできなくなっている。

こういう話を聞くのはなかなか大変ですよね。勘のいい人であればその背景にある思いに心を寄せることができるかもしれないけれど、それ以前に、聞いているだけで嫌な感じがしちゃうのが普通です。ご本人としては自己否定の言葉を連ねているつもりでも、実はそれは冷静で客観的な自己批判ではなく、相手を自分のいいようにコントロールする目的で発せられている。そこにある、非常にねっとりとした操作性みたいなものがつたわってきます。素直じゃない言葉って、こちらに対する操作性を強く感じさせるんですね。

つまり、愚痴というものには本質的に、それを聞いてくれる相手を操作しようとする意図が含まれている。それはもう前意的な、あるいは無意識的かもしれませんが、「こんなかわいそうな私を、どうやって慰めてくれるの?」という、ちょっと挑発的な操作性がある。これは間接的に、怒りをぶつけているのと同じです。それを聞いてあげなければ、今度は批判の矛先が聞く側に向かってくるようなプレッシャーを相手に与えるのが、愚痴の力なんです。
こういうプレッシャーって、人を二重三重に疲れさせます。なるべくなら、そういう愚痴に操作されてしまうような関係は遠ざけたほうがいいでしょう。少なくとも。自分が元気でないときにこういう人と付き合うのは、避けた方がよいと思います。

ほんとは、愚痴も言い方次第なんです。例えば、自分を明るく笑い飛ばすような愚痴の言い方もありますよね。「全然あかんねん!」とちょっと大げさに口にすつつ、そういう私を演じているんだよ、というのがよく伝わってくる自嘲っていうのもあります。同じ愚痴でもそういう愚痴なら、雰囲気とか、相手に与えるものは大きく変わってきます。

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「いかに心地よい心の状態を作っていくかという取り組みにおいて、「誰と付き合うか」ということは死活的に重要な問題になります。あえて申しますが、それで人生の八割が決まってしまうといっても過言ではありません。自分にとって好ましい影響をあたえてくれる人を選ぶ、あるいは自分に負の影響を与える人から遠ざかるということは、人生においてとても大事なテーマです。」ともあるのですが、私は「この人と一緒にいると疲れる」と感じたらさっさと離れる性質。そうすると義理やつきあいもないですし、他人からの評価にふりまわされることもないのでストレスフリーです。それよりも自分ひとりの時間を充実させたほうが余程よいですね。ということで、今回は例外的にめんどくさいことになりましたが、これからも付き合う相手はよく選んで過ごしたいと思います!