ロレッタブログ

美容整形と<普通のわたし> - 2016.06.20

3か月くらい前に読んで面白かった本の覚書。

美容整形と<普通のわたし> 川添裕子 青弓社
978-4-7872-3356-1

多くの場合、自分の顔は実際よりもよりよく記憶されているそうだ。だから、鏡や写真で老化の徴を見つけたときには愕然とする。
人は、自分の身体全体を見ることはできない。顔は鼻先、尖らせた口、突き出した舌がぼんやり見えるくらいである。背中も腰も脇しか見えない。自分の身体とは、それらの断片的なイメージを想像力を持ってつなぎあわせるしかない。「だから、他人に怪訝そうな表情で全身嘗めるように見回されるだけで、自分の抱いている身体像はとたんに揺らいでしまう」。たとえばブスといわれ続ければ、自分の身体をそのように経験することになり、自分でもそのようにしか思えなくなる。
~中略~
鏡や写真、さらに体重計などは、身体を「正確」に映し出すと思われている。本当にそうだろうか。

二、三十センチの至近距離で部分的に切り取られた固定的な像だからこそ、観察や比較が可能になる。ある日、自分だけやけにシワやシミやたるみが目立っていることに気づけば、それまで抱いていた<自分>の記憶になかった徴を突きつけられ、違和感や失望感、あるいは拒否感を抱くようになるかもしれない。患者だけでなく近・現代社会に暮らす人間はみな、自らを常に監視し反省し対処することが習性になっている。厳しいまなざしも身体のコンプレックスも、美容整形の患者だけに特徴的なわけではない。

自分に注がれる一方的なまなざしや中傷と、自分と平均値あるいは他者の画像を比較する新しいまなざしは、互いに補完し合いながら、時として<わたし>を否定的なものにし、あるいは<わたし>と<他の人>をそれぞれに画像情報的なデータに同一化させる。こうして自分が固定化されてしまうと、他者との流動的で相互作用的な関係性も硬直化されてしまう。

1970年代以降、近代化の流れは自らが生み出したものに直面し、それに対応せざるをえなくなる「再帰的近代」という第二の段階に入っている。そこでは、近代が産んだ概念や制度がさらなる近代化の対象となる。市民社会、核家族、国民国家の崩壊や危機といったことが日常的に話題になる。近代的中間集団が意義を失うなかで、<個人>は、自らを反省的に監視し、自己点検と編集を繰り返しながら、自己を想像する主体として「新たに再埋め込み」される。自らの身体に対しても、監視し反省し対処しなければならない。そして巷には健康診断、人間ドッグ、エクササイズ、美容整形など、監視し反省し対処するためのモノやサービスがあふれている。近・現代社会の人間は、自ら進んで自分たちの身体の状態を監視し、反省し、対処する習性を身につけている。自分はこれでいいのかといつも問い続け、自分自身を編集しつづける。患者の厳しいまなざしは、こうした近・現代社会から生まれたものといえる。
手術前、患者たちは、世間、「親からもらった身体」「普通」といった文化的制約のなかにいた。そこで、普通あるいは美の規範に自分を一致させる方法として美容整形が選択される。手術直後はみな一様に満足していたが、日がたつにつれて不満や新たな欲求を訴えるようになる人もいる。わたしたちは近代的な個人として、監視し、反省し、対処することを習慣づけられている。そして、現状よりも「よい」状態が存在すると想定され、その技術が目の前に提示されている。厳しいまなざしで監視し続ければ、目標はどんどんレベルを上げていく。患者たちは、既に美容整形の経験によってそれまでの拘束から自由になっているが、それは規制がもたらす安心感の喪失と背中合わせでもある。まだやれることがあるのではないかという不安が常につきまとう。技術的可能性はどんどん向上し、定期的な「メンテナンス」を前提とする施術も増えてきている。近・現代社会の身体加工は、整形リピーターを生み出す仕組みを持っている。