ロレッタブログ

マウンティングやパワーゲームは一抜けしましょう<つづき2> - 2019.03.21

昨日のつづき。

このように、なにが良い悪い、正しい正しくないというのは一言で言えるものではないですが、 しかし大事なことは、 もし当人が今のありかたが苦しかったり違和感があったり、嫌なこと(敵意・恨み・呪詛・支配・復讐)を意地で続けているように感じているならば、それは幸運に繋がる変化の訪れのサインだから、心に浮かぶ別の道を恐れずにしっかりとつかんだほうがよいということです。そちらのほうにワクワクする未来があるはずだから。

うっすらと不平不満と退屈と怒りが漂う自分の毎日や人生がつまらないのであれば、それは自分がつまらない人になっているからです。他人のせいではありません。

沢山の人を定点観測をしているとよくわかるのですが、 怠慢、横柄、傲慢、甘え、臆病、自意識過剰、卑屈、そして神経質すぎる人は、往々にしてこの最重要な変化のチャンスを自らのあきらめで、ものの見事に逃してしまっていることが非常に多いです。そして、こういう要素は生身の人間ならば私を含めて誰もが例外なく持っているものでもあります。 他人と自分の差や違いを見つけたときに「理解不能」と処理するのは簡単ですが短絡でもあり、こういう差異を極端な側にいる人達の問題とするのではなく、自分ともどこか地続きにある事象として謙虚に捉えておいたほうが良いように感じます。

もし様々な出来事で過去に深く傷つき、今も根深く残る不安や焦燥感、自己不全感を払拭したいのであれば、同じパワーゲームで優劣を争い続けるのではなく、その経験を自分で労わり、自己成長に方向転換して遂げていくしか克服方法はないのだと思う。

どんな経験もその時の結果だけで判断すれば、悔やんだり落ち込むこともありますが、 それが良かったのか悪かったのかなんて、人生が終わってみないと誰にもわかりません。 起きたことの意味づけは、あとからいくらでもどんな風にもできます。数年、数十年前のどうしようもなく辛く苦しく、これ以上落ちようがないのではないかと思えるほどのどん底の時期や出来事が、思い返せば今日の自分を形作るには欠かすことのできない成長経験であり、その時は災厄と思えたことが、実はある日ふりかえってみれば我が人生最大の幸運であったと思えることもある。 当時の自分の器にはあまりにも深刻だったことが、今の自分には大したことではないと思えたり、またそれすらも可笑しく感じられたりすることもある。 陳腐な自己陶酔はいただけないけれど、日々を自分なりに転んだりつまずいたりしては立ち上がり歩を進めることに懸命に生きてきた人なら、きっと似たような心当たりがあるのではないでしょうか。

長期的に物事をとらえ、今の失意さえ未来の自己成長に繋げられる人こそがおそらく心が健やかで強い人なのだと思います。よく、自己肯定の次のステップが自己受容と言われるのは、そういうことではないでしょうか。そういう人は他者も尊重できるし、お互いに頼りあうこともできる。

K様も、きっとこうした経験が、後輩や同僚や友達や子供や旦那さまなど、辛い出来事に見舞われた誰かの気持ちに将来寄り添える糧になるのではないかと思います。4月から新しい環境で、のびのびとK様らしく働けることを心から願って、陰ながら応援しています!!