ロレッタブログ

グロリア・スタイネムの著書より - 2019.11.03

昨日に続いて、今日も美容整形について書きますね。

美容整形手術や美容医療を、自分のために受けるのではなく、他人のために受けるのは、お勧めしません。

たとえば動機が「母親の指示」「夫の希望」のように他人の指示によるもの(←意外と多い)。もしくは「他人の目をひきたい」「他の女性より若くみられたい」、ありえない「完璧」を求めるなどの卑屈な自意識による場合は、整形も美容法も健康法も満足や肯定感などの実を結びづらいです。自信の欠如が問題であって、整形で補填を試みたところで短期的には事態が好転したように感じられても、長期的には性格が歪んでしまうことがとても多いです。

以下は二十数年ぶりに読みかえしてみたグロリア・スタイネムの著書より。出版当時のインタビューもみつけました。

私は、からだを変えることによって、私たちが自分についてよい気分を味わうことはあり得ないなどと言うつもりはない。私が言いたいのは、ただ、確実によい気分を味わうには、私たちは自分の動機をはっきりと知る必要があるということだ。希望、もしくは恐れの気持ちから、私たちは自分のからだを変えたいのだろうか。それとも自己表現へのあこがれ、もしくは他の人々の賛同を得るために?喜びのために、もしくはプレッシャーのために?これらの基本的な質問を頭の中に入れておくことは、私たちが、おびただしいマスメディアのイメージやからだを変える無数のテクニックの泥沼の中を縫うように通り抜け、真に健康で力を与えてくれるものだけを見つけ出す―そして残りは全て退ける―のを助けてくれるはずだ。

美容整形外科医で審美的手術として知られている分野のパイオニアであるトーマス・リースは、手術が本人にとって助けとなるような患者を選ぶための基準として、このような質問を適用しているように思われる数少ない医者のひとりだ。

同業者に向けて書かれた記事の中で彼は、両親の希望にそうように鼻の形を変えているティーンエージャーたちに警告を発している。また、プールの周りでくつろいでいる時などに、他の男たちをうらやましがらせたいという夫の望みで胸を大きくしようとする女、けっして満足することのない完全主義者、愛する人の死、失業、離婚、そのほか、人生における重要な変化を経験したばかりで、手術に非現実的な救いを見出そうとしているかもしれない患者たち、さらに、外科医には極端にへつらい、受付係には横柄な態度で接して、自尊心に問題があることを暗に証してしまう患者に対しても警告を発している。

「自己のイメージに関しては、すでに多くのことが書かれているにもかかわらず」と、彼は警告を発している。「それについての我々の知識は、極めて表面的なものだ。人々は自分のイメージをどんなふうに心の中に描いているか、そしてこの自己視覚化が、いかに外科医の評価からかけ離れたものであるかを発見することは、しばしば若い外科医にとっては大きな驚きである」。

美容整形手術がたんにもうひとつの恥ずべき理由、嘘をつく理由となるのは、往々にして自己についてのイメージが否定的で自尊心が低いことの徴候だ。私は、夫が若い女と関係をもっているという明らかな理由から顔のシワとり手術をした、社交界の名刺、サニー・ヴォン・バロウの事を思う。彼女は自分の身の回りの世話をやいてくれるメイドに、おそろしい剣幕で秘密を誓わせたので、彼女が永久的な昏睡状態に陥り、夫は彼女の殺人を企てたかどで裁判にかけられるという事態が生じた後でさえ、この忠実なメイドは、「私の女主人」のシワ取りを断じて隠し続けたのだ。

逆に、このような手術をおおっぴらに受けようとする行為は、自尊心のしるしだ。私は、いつか新聞で読んだ天然痘とにきびのあとが顔に残った十代の男の子のことを思う。原理主義者のキリスト教徒である彼の両親は、この「神の罰」の証拠を彼が消してしまうことを、けっして許そうとはしなかった。彼は自分には何もやましいところはないと思って、判事から手術をする許可を得ようとするのだが、拒否されてしまう。彼にとっては美容整形手術は、偉大な祝福で有り得たであろうに。

私はまた、自分の知っている三人の女たちの対比について考える。そのうちの二人は、二十代の時に、背中の痛みなどの肉体的な不快感や道を歩いている突起に受ける性的嫌がらせを解消するために、そして自分たちには当然、その権利があると信じた、快適さや自由を味わうために、乳房を小さくする手術を受けた。三番目の女性は、胸がぺちゃんこだった思春期の埋め合わせをしようとして、五十代で胸にシリコンを入れて大きくした。父親は、よく彼女のことを冷かしては、「ぼくの息子」と呼び、自分はつぎつぎと、ますます若い、更に胸の大きな妻たちとの結婚を繰り返していた。三人全部にとって、手術の結果は、動機の中に既に含まれている。自分たちについて、もともと肯定的な気持ちを抱いていた最初の二人は、手術のあとで、その気持ちはさらに助長された。はじめから否定的だった三番目の女性の気持ちは、後にはさらに悪化した。最後に会った時、はたして恋人は「気づいている」かどうかを、彼女はひどく心配していた。

このような実例ー美容整形手術や他のさまざまなからだの変革に対して、全面的に反対か、もしくは賛成という、非現実的な、観念的立場ではなく―は、私たちを正しい質問へと導いてくれる。答えのためには、心を内側にむけて、つねに正直な内なる声に耳を傾けてください。

1 自分が意見を尊重しているような人たちと、この変革(美容整形手術)について話し合うことは、私たちにとって居心地の悪いものだろうか。(もし私たちがその話し合いの時に、自分の手術について否定するだけでなく、同じ手術を受けた他の人達のことを非難していることに気づいたなら、それは自己憎悪のあらわれと考えてよい。私たち自身の中でその原因を突き止めることが必要だ。)

2 それをしてもしなくても、自分は同じように価値があるということを私たちは知っているだろうか。(もしこの答えが「いいえ」であれば、外側の変革は役に立たない。少なくとも、内側の変革がまず先になされ、さらに、それと共になされるというのでなければ、意味はない。)

3 社会が私たち、もしくは私たちと同じような他の人々に対して課しているさまざまな標準を、私たちが変えようとする時、この変革は私たちがそれすることをより可能にしてくれるだろうか、それともその逆だろうかーたとえ、その標準が年齢、人種的外見、そのほかの事であったとしても?世の中は確かに酷い偏見に満ちており、私たちはその偏見と職場で戦わなければならないかもしれない。しかし、手術はきわめて個人的で、永久的なものだ。もし私たちが「もし靴が合わないなら、私は足を変えよう」と言うことで、たんに降伏しているだけだとしたら、私たちは考え直す必要がある。

私はいまなお、自分がすべての女になって欲しいと願っているような勝利者ではない、しかし、どんな年齢にあっても、健全な動機に対して、からだがいかに喜んで応えようとするかは驚くべきことだ。最近、知らない女性が私のところへやってきて、まだはじめてまもないヨーガとウエイト・トレーニングの成果である、私の引き締まった筋肉を讃えた。引き締まった筋肉!それは、メディアでいろいろ「美人」として取り沙汰されるのをひとまとめにした以上に、私に自分の身体を誇りに思わせる最高の誉め言葉だった。

American feminist writer Gloria Steinem in her Manhattan apartment, New York City, March 1992. (Photo by Michael Brennan/Getty Images)