ロレッタブログ

せっかく変わるならよいほうに変わりたい - 2020.02.26

船内でウイルス培養して市中に放った政府に唖然としているお客様が多いですが(あたりまえ)、「検査しないから拡がっていることにならない」って発想がまた有り得なさすぎる。感染者数を少なくみせたいのなら、死者もろくに報道しなさそうな気がする。というか、単に無能すぎるだけで何も考えていないのだと思う。思考停止も末期だ。

百田尚樹や高須院長にもついに見限られた政権ですが、国際的にも失笑どころか侮蔑ものでしょう。毎年の大型台風襲来でもゲリラ豪雨でも地震でも原発事故後の被災地でも、なにもしてこなかったのだから、新型肺炎も同じくなにもしない。国民の命や健康より自分のことしか考えてない 。お友達とつるんでご飯食べに行くだけの人達。高齢の自民党議員がコロナでバタバタ亡くなっても何もしないと思う。森まさこ法務大臣もとんでもないことを言っているが、あの調子が通るなら私も今年の確定申告は口頭で済ませようかな(笑)。

日本人はよほどの社会的外圧が無いと変化しないので、せめて今回のコロナがリモートワークやオンライン学習の推進になるといいですよね。

「毎日満員電車で通勤しなくても自宅で仕事が完結できた」とか、「居場所のない教室に行かなくていいならもっと安心して勉強できる」とか実感が伴う人が多ければ多いほど進みそう。1日のスタートとしては満員電車ほど最低最悪なものは無いと思うので、それが減るだけでもかなりメンタルヘルスには良さそう。あれを朝早くに起きて数十年も続ける気が全くしなかった私は、さっさと会社辞めましたもんね(笑)。

さらに在宅ワークやオンライン学習でハラスメント上司やうざったい同級生と接触回数を減らして、憂鬱な気分が少しでも上向きになったり、メンタルが健やか保てるのならさらに良い。自分で選べず頻回に関わらざるを得ない人間関係ほど苦痛なものはないと思いますから。会社の人間関係、ご近所、PTA、親類とかね。

しかし執筆業の知人は「たった1年の在宅でめっちゃ太った」「体重が一気に増えた」と言っているので、体調管理はさらに高いレベルで要求されそう。

コロナに限らず、風邪やインフルも重症化しやすいのは、持病あり(糖尿病とか)だったり筋力も体力も栄養状態も悪くて免疫も低下した衰弱したかたや高齢者。つまり学習や仕事で外出(=立位歩行)する必要がなくなればなくなるほど、自己管理が大事になる。 仕事の時間管理も、やろうとおもえば起床から就寝まで際限なく仕事できるしね。

装いだって通勤や通学のために着替える必要がなければ、「1日中パジャマで仕事して寝る」でもOKなわけです。「馬鹿にされないように高級品を着る」とか「少しでも優位に立ちたいから買うならブランドもの」みたいな必要性はぐっと減りそうです。こういう購買行動や装いをする人を定点観測しているとよくわかるのだけど、人生の行動原理と優先順位は劣等感が非常に高い。だから権威に弱いわけ。在宅でほとんどの用事が済んで、他人に会う機会も減るなら「私は何のために身づくろいをするのか。何のために、誰のために装うのか」を再考せざるを得ない。 こういう問いは自尊心に問題を抱えていたり自己肥大している人ほどキツイでしょうが、問題を直視する機会は自己成長になるのだから、せっかく到来したチャンスは生かさないとね。

ツイッター上では久しぶりに宮台ゼミも開催されたしで、先生のおっしゃるとおり 「世界に晒そう、美しい日本の美しい安倍! 」で、このままオリンピックが日本開催中止になってしまえばいいのに。オリンピックのあとに日本が沈むのを、コロナが早めてくれただけだと思うから。

家にこもりきりでも生活が成り立つなら、あなたは誰と繋がりたいか。社会という荒野を仲間と繋がり生き抜きたいなら、仲間を作るスキルを獲得しようとしてきたのかどうか。繋がれる人の心当たりがないなら、こういうときが考え時です。献身や自己犠牲の態は取引ではなかったか、目先の損得とメンツと勝ち負けと優越に終始してこなかったか、そんなんだから自分には弱みを開示できる友達がいないんじゃないのか、いないことを相手のせいにしていないか、繋がりがないどころかそもそも繋がろうとしてこなかったんじゃないか、 自分なりに生きる場所を自分で自分の周りにつくるのは地道な作業だから、そんなことをコツコツやるよりも目先の楽を選び、安易に解決してくれそうな逃避としての依存に傾倒してきたんじゃないかとか、 キツイことをとことん内省するのに、とーってもよい機会だと思います。 本当に変わりたいなら、まずそんな今までの自分を変えることからはじめないとね。

以下、宮台先生の記事を自分用覚書として記しておきます。

連載12回:存在論的転回は社会学的構築主義を爆砕。言語論的転回は実は存在しない

連載13回:「制度による社会変革」から「技術による社会変革」へ、というシフトの必然