聴く力と出す力。音と身体の“本質”を磨くということ - 2026.01.11
以前のブログ「質 × 頻度 × 量 × 継続。ELSAで見えてきた“発音”と“身体感覚”の共通点」で、
私は英語発音の学習を通じて、ピラティスと同じ“神経系の再教育”を体感していると書きました。
それから数ヶ月。
ELSA Speech Analyzerでの練習を続けた結果、発音スコアは着実に上がり、
苦手だった単語だけなら90%超(←まぐれか奇跡か!?)、繰り返し読んだ台本では87%前後を安定して取れるようになりました。英語ネイティブでない日本人の英語にはクセがあるのは当然ですが、自分が発音できない音は本当に聴き取れないので、リスニングスキル向上のためにも大切な練習です。


しかし、この数字の裏側で、もっと深い“気づき”がありました。
それは、「音を正確に聴き、正確に出す」ことの本質が、単なる技術の習得ではなく、やはりこれもピラティス同様に、“感覚の精度”を磨く訓練だということです。
音を「再現」できる人は、身体で聴いている
アメリカのプロミュージシャンの友人たちを観察していると、彼らは日本語の発音までも驚くほど自然に再現できます。
これは決して偶然ではありません。
彼らは音符が読めるだけではなく、声帯・舌・口腔・喉といった“身体全体の楽器”を総動員して、
求められた音を表現豊かに出力する訓練を積んでいます。
重要なのは、「正しく出す」ことだけではなく、感情・意図・ニュアンスを伴って出すこと。
ただ正確な音を出すだけなら、ロボットでもできる。
けれども「聴く人の心を動かす音」には、人間特有の神経的微調整が含まれています。
彼らは耳で聴き、声で出し、また耳で聴き直して修正する。
この繰り返しの中で、脳・耳・声帯・口腔がひとつのネットワークとして統合されていくのです。
技術を超えた“本質”を知る人たちの共通点
音楽業界で活躍するエンジニアの友人が、こんな話をしてくれました。
「絶対音感があるからといって、プロになれるわけじゃない。
“今のあそこが少しズレたから録り直したい”と本人が言うことはあるけど、多くの場合、それは本人の自己満足。リスナーの心に響く音楽は、そんな細部の完璧さの中にはない。ちょっとずれている音の方がよほど心に響くことがある。」
さらに彼は続けました。
「オーディオマニアが高級機器で聴こうが、街頭スピーカーや安いラジカセで聴こうが、本当に良い歌というものは、再生機器でその良さは変わらない。エンジニアは“再生環境に左右されるような音”は作っていない。」
もう20年ほど前のやり取りです、最近この言葉を思い出したのです。ピラティスと語学も音楽も、
どちらも「何か1つだけの正確さ」を目指しすぎると、本質を見失う危うさをはらんでいます。
技術だけでは届かない領域

ロシア語最強の同時通訳者であり著述家の米原万里さんの著作『不実な美女か 貞淑な醜女か』に、こんな一節があります。(名著だからぜひ読んで!!)
私どもにとっての母語、つまり生まれてこのかた最初に身につけた言語、心情を吐露しモノを考えるときに意識的無意識的に駆使する、支配的で基本的な言語というのは日本語である。第二言語すなわち最初に身につけた言語の次に身につける言語、多くの場合外国語は、この第一言語よりも、決して決して上手くはならない。単刀直入に申すならば、日本語が下手な人は、外国語を身につけられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない。コトバを駆使する能力というのは、何語であれ、根本のところで同じなのだろう。通訳者にとってもう一つの商売道具である、外国語の力もまた母語の能力に左右されるということだ。(P.278)
実際には、第二言語が主になるケースでは母語ですら忘却されていくこともあるとはいえ、発音の精度だけを高めても、内容や表現の力やクライアントの身体感覚の精度を読み解く能力が伴わなければ、伝わる英語にはなりません。
それはまさに、ピラティスで「動作の形」だけを追っても、中の筋肉や神経の働きと脳のコネクトが伴わなければ、「ピラティスっぽい振り付けの何かをやっている人」に陥ってしまう現象と同じです。
正確さは大切。
でも、“伝える力”や“感じ取る力”というコミュニケーション能力や指導力を置き去りにしては、技術の自己満足が独り歩きしてしまう。
何語であれ、お客様に伝わる口頭指示ができなければ、現場ではインストラクターとして役に立たない。そして、己の身体感覚が鈍いインストラクターは、お客様の代償動作を見抜くことも、修正することもできない。
この数年のピラティスブームで、振り付けをただ丸暗記しただけで現場デビューするペーパードライバー的インストラクターが大量生産されているその危うさを、私はELSAのスコアが上がるほどにより一層感じるようになりました。
多角的に、自分を整える
音楽・語学・ピラティス。
どの分野にも共通するのは、「一要素だけでは成立しない」という真理です。
音楽は技術と感性の融合。
語学は発音と意味の統合。
ピラティスは動作と意識の調和。
どれも、“全体性”を取り戻す営みなのだと思います。
そして、それを実現するための道筋はひとつ。
「質 × 頻度 × 量 × 継続」という、地味で確実な積み重ねです。
終わりに
点数や評価も確かに励みになります。
けれど、それ以上に大切なのは、
自分の中で“聴こえ方”や“感じ方”が変わっていく実感。
神経がつながり、身体が応え、心が動く。
その瞬間にこそ、学びの本質があるのだと思います。そのうえで、学びを続けて向上していきたいです。
ちなみに、発音矯正に特化した英語系YouTuberのだいじろー(第一子ご誕生おめでとうございます!!)さんも、本当に地道な自主練をしています。これまで、「だいじろーさんは耳がいいんですね」と耳タコなぐらい言われてきているのだそうです。
確かに、「発音に強い興味がある」し、ある一定レベルで「耳も良い」のかもしれません。しかし卓越レベルに達している人ほど、自分の弱点を改善する努力を途方もないレベルで謙虚に継続しているのがよくわかります。トライしたことのある人なら判るはず。これを「生来あなたはできる人だから(私達とは違うのよ)」みたいな言葉でこの努力を片づけるなんてしないはず。
