ロレッタインタビュー(vol.1)

原点は、負のスパイラルを目の当たりにした幼少期

ー今日はよろしくお願いします。第1回目のインタビューは、甲原さんの幼少期についてお聞きしたいと思います。サロンにお越しに来るお客様にとって甲腹さんの魅力は、質の高い施術力だけではなく、率直でときに耳の痛いこともおっしゃる実直なお人柄もあると感じるのですが、幼少期にそれが関係しているのではないかと…。実際のところはどうだったのでしょう?

甲原:ありがとうございます(笑)。出身は、私は高知県高知市瀬戸です。家から太平洋まで車で2分くらい。西原理恵子さん(漫画家)が幼少期を過ごした浦戸が近くです。西原さんの漫画『この世でいちばん大事なカネの話』の世界のすぐ隣で育ちました。

―それはすごい世界ですね。

甲原:以前、お客様から「西原さんのこの漫画知ってる?」と聞かれたとき、「私の地元です」と答えたらドン引きされました(笑)。昔はあの地域で子供が生まれても、半数しか成人を迎えられないと言われていたそうです。

私が10代の頃は、漫画『ホットロード』が連載され尾崎豊が流行ったヤンキー全盛期。公立中学の入学式にはシンナーで前歯がない子がおり、校舎の窓ガラスは割られ、授業中にバイクが廊下を走っていました。(笑)私はそこに通わなくて良いように私立中学を受験しましたが、私立にもヤンキーはいて、容姿が良い親から生まれるので美人で可愛い子が多かった。

チヤホヤされて、「自分の容姿は『中の上』」「地元一の美人」と勘違いし、身を持ち崩す女性の原型と再生産をずっと見てきました。

ーまさに、西原さんの世界ですね。甲原さんの核にも、「綺麗なだけではなく、まず賢くあれ」という信念がある気がします。

甲原:私はヤンキー系ともガリ勉の子も話ができましたが、超優秀という成績でもなく、どっちつかずの立場にいました。今も当時もどこか1カ所に属するのは苦手です。

「私達VSあいつら」みたいな対立構造や「私達は同類よね」と確認しあうことには違和感があるからです。自分は自分、あなたはあなた。別の人間です。

ーちなみに甲原さんの家族構成は?

甲原:父と母、そして1歳上の姉です。父が母の7歳下。母が32、33歳ぐらいで姉と私を産んだので、母が結婚したのは30歳前後だったのかも。当時では遅いほうですね。

母はとても自立心の強い人でした。それも無理もないというか、実父が60歳のときの子だそうです。実母(甲原さんの祖母)は、母が小学校低学年の頃にがんで亡くなりました。小学生の母は、毎日放課後に汽車に乗りお見舞いに行ったそうです。

母に残された家族は、明治生まれの高齢の父。母の誕生前に養女で迎えた姉。実母が亡くなってすぐ後妻さんがきたそうで、母は「嫌で嫌でしょうがなかった」と。10代の母と70代の実父では話も合わない。養女の姉は甘やかされたので頼りにならない。

ー10代の子の環境と考えると、非常に大変そうです。

甲原:母が20歳のとき、実父は80歳。だから、「私がこの家族を養っていかなければならない」という一心で働いたそうです。孤独ですよね。とても賢く優秀な母は、娘の私から見ても綺麗な人でした。とにかく常に頭の中でそろばんを弾きながら働いた人です。

高校卒業後は、はりまや橋の土産物屋で働き、夜も働き、日々落ちる体重に「一体どこまで落ちるのだろう」と思ったそうです。その後は、喫茶店のオーナーにもなり、カウンターに立っていたようです。父とはその店で出会ったと、父の友人から聞きました。

父はジャズと競馬と煙草が好きな人。母は、煙草をくゆらせてモカを飲む時間と、読書と映画が好きな人。実家にあるおしゃれなコーヒーカップはお店で使っていたものだと、ずっと後に知りました。

ーお母様は非常に苦労されたのですね。「自立」の血は、甲原さんにも受け継がれているように感じます。

甲原:最近つくづく似ているなと思って自分でも驚きます。ただ、母は人に相談することを知らない人でした。ものすごく頑張り屋さんだったのですが、人への頼り方がわからなかったのかもしれません。最も身近な家族にも相談できず、頼れる人がいなかったわけですから。最期はS字結腸がんで亡くなりました。がんを発見したときには手の施しようがなく、入院1週間で亡くなりました。そのぐらい我慢づよく、1人で何もかも抱え込む人でした。

父は3人兄妹で、母と同様にちょっと変わった環境で育ちました。両親がいとこ同士で結婚したせいか、兄と妹は体が弱く、実母はその世話にかかりきりで、父は祖母に育てられたそうです。父は祖母を実母だと思っており、本当の母を「なんかいつも家にいるおばさん」と認識していたので、事実を知ったときには驚いたと聞きました。

だから私の両親は2人とも、実親と親子としての関係性をあまり持てておらず、自分達の子供にも接し方がよくわからなかったのかもしれないと思います。

ー実際、ご家族とはどのように暮らしていたのですか?

甲原:母は自宅の一角をお店にして、煙草屋と駄菓子屋を営業していました。父は私が小学校の頃に家と工場が1つになるように改築し、家業(餅屋)を継ぎました。子供の学費を考えての決断だったようです。

できたての柔らかいお餅を小売店に運ぶために、午前2時から仕事が始まります。昼に仮眠、夕方は煙草の自販機を設置しているお店に煙草を配達。それは、複数の商売を持つことで常に現金が回るように、という母の采配でした。でもこま切れの睡眠のままで働くと人間は余裕がなくなるので、子供に手をあげるのは珍しいことではなかったです。

というわけで、私の親は仕事で精いっぱい、結果的に家族は不仲になり、親は子を殴る、子は言い返して怒鳴り合いになり、さらに蹴る、叩く。子供の栄養面も考えたかったのでしょうが、実際は時間がないのでレトルト食品は当たり前。自炊能力は否応なく身につきました。そして私が小学校5年生頃に両親は別居しました。

私は単に「家が2軒ある」と思っていましたが。最初の別居は私の中学受験直前で、風邪を引いた私は、子供ながらに「この人達、迷惑だなあ」と(苦笑)。

ーグレたりはしなかったのですね。

甲原:ええ。余裕がない親に「しっかりしてください」と言っても無理です。「親も生身の人間。精一杯のキャパが現状だから、期待してもムダ。私はまだ子供だから仕方がない。住む場所と経済面は親の世話になるけれど、その他の成長は自分で自分を育てる」と10歳で決めました。

親が寝起きする瀬戸の自宅兼工場とは別に、私と姉が通う学校の近くに賃貸アパートを借り、その後、一軒家を購入しました。ですから、私は父と母とはあまり住んでいないのです。