子供の頃から「在り方」を考えていくことが大事
ー多感な時期に、教師や友達の言うことに流されずにいたのは幸いでしたね。
甲原:私はそうならずにすみましたが、道を踏み外していく子はいました。ヤンキー以外にも、フェラーリにのる親がいても友達と万引きを繰り返して転校せざるを得なくなった子とか。安易に群れて流されるとそういうことになるのかなあ、と眺めていました。なんとなくノリで退学していく子が数人続いたときがあって、その後の道は土方だったりホステスになったりで、その数人はまだ十代の頃に一度見かけたことがあるのですが、学校にいた頃のやんちゃで元気な様子は全くなくなっていて、なんだかとても疲れている様子だったのをよく憶えています。慣れない肉体労働や接客業で、心身ともに疲れるのも無理もないのですが。
ただ、そういう風に流されていく同級生とも、とりあえず群れてつるむことを好む同級生とも私はどうもなじめないので、家で映画や読書をしていました。ケーブルTVや衛星放送やレンタルビデオで好きなだけ映画鑑賞できたので、サイレント映画まで遡り、映画評論もかなり読みました。私には夢中になれる映画や読書があったのでラッキーでしたが、そういうものがない子が流されたのかもしれないですね。民度も低く文化もなくお金だけがあったり、どれもがない家だと道を踏み外しやすいのかもしれません。
文化ではお腹は満たされないけれど、大事なときには人生を守ってくれると思います。エサを食べてセックスして妊娠して子供を産むだけなら、野良猫でもできるでしょう?でも人間には、文化や抽象的なことを考える力がある。
ーこの差は大きいですよね。
甲原:そう思います。そういえば先日、「子供を保育園に入れるときに、『どういう教育方針がありますか?』と先生に質問されて、まだ何も考えてなかったのでびっくりした。そんな早くに決めないといけないのか」というお客様がいらっしゃいました。でも、そういうことが“人間育て”に必要なものだと思うのです。ただ、現代は夫婦共働きが大前提の子育てですから、フルタイムにしろパートタイムにしろ、日々の用事と時間のやりくりに追われっぱなしだと、とりあえず子どもをみてもらえる所を探しだす手配だけで精いっぱいになってしまうのもよく判ります。そんな抽象的なことまで立ち止まってじっくり考える暇すらない・・・というのが実情なのだと思います。
私の世代は「良い大学に入り、良い会社に入り、男は会社に生涯忠誠を誓い、女はそういう男の嫁に貰ってもらい、一生食うに困らない『社会的ステータス』と『金』さえ手に入れば人生は成功……と思ったら、全くそうではなかった」というのが決定的になった就職氷河期真っただ中の世代です。求人1以下でしたから。かといって、非行や問題行動は働き口がみつからない人や貧しい家庭のものだけのものではなくて、実は立派とされる職業の、たとえば大学教授や士業の親の下でも起こりますし、実際にそういう同級生はいました。経済面と物質面では何の不足ないむしろプラスに満ちた家庭でも、過干渉と過保護によって、子供が大変な事件を起こしたり、世間知らず故にどう考えても詐欺としか思えないセールスに嵌っていたりします。親が管理しすぎて齢50や60でも自分で何も決められないエリートもいますし、亡くなった親からお金だけ受け継いだ中年でもメンタルの成長がどこかで止まっている人もいます。
ーそれを防ぐにはどうすれば良いでしょうか。
甲原:たとえば、「どういう子供に育ってほしい」と訊かれたときに、どう考えますか?
「健康で元気で素直な子に育ってくれれば良い」という方は多いですが、女の子は「素直さ」が「媚び」へと変容することもあります。それなら「元気」で「健康」ならばよいかというと、親の庇護の下で元気で健康なだけでは自立心は育まれにくいので「幼いおばさん」ができあがったりします。
媚びだろうが若さと美貌だろうが、使えるものは使えるうちに存分に駆使すれば良いとは思いますが、同時進行で実績と経験を積むことも忘れないほうが良いんじゃないかな・・・と思います。
そこを「媚びさえすればどうにかなる。困ったら、『お願いします!』って困った顔で誰かに言えばどうにかしてもらえる。」と思い違いをしたまま年齢を無為に重ねるてしまうと、職業人としてのキャリアはどんどんつぶしがきかなくなります。年齢に見合ったスキルや経験がないのだから仕事を選べる立場ではないのに、その上に体力までないのだから、楽な業務内容で給与や待遇が良い仕事を探そうとするから、本当に加齢とともにただひたすら仕事が無くなっていくんですよ。面談もただ楽しくおしゃべりできれば採用されると思っていたり・・・。
若いことは大抵の場合は経験がなく未熟なことを意味するので、間違いや欠点も許してもらいやすいのです。ただし、それはあくまでそれは若いから許されているだけで、いつまでもそれが通用すると思っていると、社会人になって数十年目の人よりも大学生のバイトのほうがもっとまともでしっかりしている・・みたいに、ちょっと奇異な年の取り方になっていくんですよね。そんな風に年齢と共に、仕事に困っていく女性も沢山見てきました。経験値が無いまま、体力も無くなっている集中力も衰えている。そんなふうに何もかも手遅れになってから、いざ稼ぐ力を身に着けるのはなかなかしんどい道のりではないでしょうか。短期ではなく長期的に自分のスキルを磨き上げて稼ぐ力を身に着けるのは、楽にできるものではなく、それ相応の長い時間と努力が必要ですから。
若い時に多少媚びたことで一時的に仕事を回してもらえることはあっても、職業人として無能な人にお金を払い続けてくれるほど世の中は甘くありません。媚びてくる人間にずっと仕事を回していると、その人自身の評価も下がってしまうので、頃合いを見てフェイドアウトするものです。それを見捨てられたとか、酷いなどと責めたところで、若さを失い、美貌も衰え、媚びはもう通用しなくなっているわけで。そして親は亡くなり、たとえ子がいたとしても独立していくものです。そんな風に自分の人生が自分の足でいざ本当に立ち行かなくなったときに、「あの頃はよかった」ばかりを口にするのはちょっともったいないですよね。そこから先はもっと長いのに。
だから、先生の質問の本意は「どういう人であってほしいですか?」ということだと思います。
子供がある程度の年齢に成長したら、大人が子供に「あなたはどういう人で“在りたい“の?」と問うたほうが良いのでしょうが、日本では「あなたは将来何に“なりたい”の?」という訊き方をしてしまうことが多い。
ー「結果」を訊いてしまうということですね。
甲原:そうです。今の日本の価値観では、なりたいものになれなかっ たら、もうそれは失敗で、挫折にしかならない。しかし、なりたいものになるための「過程での在り方」も大事にすれば、なりたかったものになれなくても、決してその道のりは無意味ではないと思います。
だから20代の女の人がで、「30代後半や40代以上の先輩は、仕事と子育ての両立で大変そう。私の母は専業主婦だし、働かずに生きられるならそのほうがラク。だったら私も専業主婦がいい」という子はいますよね。日本最大の宗教は「世間様教」なので、皆と仲良く友達100人いて、女の子らしく、といった「均質化」と「世間に迷惑をかけるな」を守っていれば楽に生きられそうに思えるのかもしれません。が、誰にも迷惑をかけずに波風立てず生きるのも死ぬのも不可能ですし、友達は100人もいらないです(笑)。
また、「自己肯定感を上げたいです」とか「もっと自分に自信が欲しいです」という人もいます。その人が本当に求めているのは実力であって、実力を得るためには今とは全く違う変化と成長が必要なのに、ちっともその選択を取ってないのだから、ずっと自己肯定感が低いのは当たり前なんです。
こういうのは、ただ目の前の大変そうに思えることに対して反応しているだけで、「私はどういう人で在りたいか?」というような考えるという工程がありません。可愛かったり、綺麗な容姿で生まれついてちやほやされたり、何か過去にコンプレックスを強く感じるようなことがあると、特にそのあたりを人生の早い段階で間違えやすいのかな?と思います。
そこには変わらないという1つの幸せがあるのかもしれませんが、変わらないことはそれ自体がいずれ最大のストレスになります。自分の人生は自分で切り開かないと、誰も手伝ってはくれません。それに気付くのは早ければ早いほうがいいんです。目を背けたり気づくのが遅ければ遅いほど、人生は詰んでいくからです。また、たくさんの女性を見ていると、自分の頭で考えて、積極的に自己変容する道を選びつづけている人の方が楽しそうですし、断然魅力的なのは言うまでもありません。
毎日様々な人と接することができるのが接客業の面白いところですが、美容業は特に女性の人生に関わらせていただける素晴らしい仕事です。多様な女性の生きざまに、5年10年20年・・・という単位で接していけることは、何物にも代えがたい学びがあります。