ロレッタブログ

一緒にいるのなら、大事にしたいものです - 2018.02.21

昨日の続き。

あとね、男性女性関係なく、もっとお互いに労わりやねぎらい、感謝の言葉を特別な時だけじゃなくて、生活のなかで口にして伝えたほうがいいですよね。相手に身の回りのことをやってもらって当たり前、稼いでくるのは当たり前、うちに帰ってくるのは当たり前、ご飯作ってもらって当たり前、言わなくてもわかってるでしょ、かまってくれて当然とかじゃなくてね。よく陥りがちなのは「かまってくれないから、私もかまわない」「相手が折れるまで自分も折れない」という意地の張り合いなんですが、これを始めると泥仕合。まあ、その気持ちもわからなくはないけれど。

誰かを頼ること=依存と甘え、弱みを見せたくない!と一概にしてしまうと、どのタイミングで相手を頼っていいのか、好意の申し出に応えていいのか、女性側がわからなくなっちゃってるかな?って感じることもありますね。まじめで頑張り屋さんで、自分に厳しくて責任感のある女性ほどそうなりやすいかもしれない。昨日も書いたけど「頼る=負け」「好意に甘える=媚」みたいにとらえているとちょっと大変。ビジネスの議論・決断・指示・実行モードから、プライベートモードへのスイッチの切り替えがわからなくなっているのかもしれない。本当に仕事ができる人は上手に人を頼ることができたりもするから、部下もそだつし人望も厚いですけどね。

実際、自分ひとりではできないことって山ほどあるので、頼り先があることは幸せでもあるわけ。自立と孤立は別だし、孤立と孤独も違うのだけど、この辺がごちゃまぜになっていそう。熊谷晋一郎さんは障がい者として「自立は依存先を増やすこと」と語っているけれど、これは健常・障がいに限らず誰にとってもそう。頼れる誰かがいることは不安の軽減につながるから。

熊谷さんの名著。

話もどって。
おそらく夫婦やカップル間のトラブルってね、ビジネス上のしがらみは別としてだいたいはパワーバランスにおける優位性の取り合いなんじゃないかと思う。競争心、優越感、劣等感などなど。でもね、どっちが上だとかをとことんわからせるためにやりあって、相手をやりこめて「ざまあみろ!」みたいに感じるために一緒に生きることを選んだわけじゃないはずなんですよ。笑顔で共に生きていきたくて、一緒になったはずですからね。

相手が自分より何かができないことを、自分より劣っているとか役立たずとか愚かだとか稼げないとかお金がないとか、軽んじ始めたら本当に危ういです。その次にくるのは無関心だから。それでもいたしかたなく共にいる事情を徹底的に自分の腑に落とせているならまだよいのですが。やってしまったことに対して意味を後付けする自己正当化は、脳が一番得意なことだから。そうでもしないと自分を保てないしね。でも、感情と身体はそんなにうまく騙せない。違和感を抱きながら共に住んだり歩んだりする人生は、離婚や孤独よりもおそらくはるかに心身の健康に悪い。そういう人を観察していると、9割がたは若いうちに心身を病むか、最悪早死。本来最も親密であるはずの人間関係のクオリティが低いということは、そういうことです。

もし自分よりも格下(と自分が蔑める)相手しか受け入れられないというのなら、相手を見下すよりもまずそういう人から離れられない自分自身の問題に立ち返るほうが先でしょうね。根っこのところでセルフイメージが相当低い証拠だから。

やっぱり関係性において、どちらかだけが一方的に徹底的に悪いなんてことは、なかなか無いと思う。お互いの成長の方向性が決定的に違ってきて別々の道を歩む(GrowApart)のなら別ですが、そうでなくてまだ一緒にいるのなら、関係性の維持と構築に労する手間を厭わないようにしたいものです。

余談ですが、こういうトラブルを極力避けるためには別居婚、通い婚とか、年に数回、数年に1回程度しか会わない友達関係ってほんとうに良いと思う。お互いが会えるだけで嬉しいし、時間を作ってくれたことに感謝でいっぱいだし、せっかく会えたなら楽しく過ごしたいと思うしね。事実婚や子なしのつがいも、国家の保護や子供という冠を設けずに「あえてともに居続ける理由」をお互いが意識的に育む努力を要するから非常に良いとおもう。当たり前と思いがちなことを、当たり前じゃないようにする工夫。ただしこれは「惚れられるのはよくても、相手が自分から去っていくのは許せない」という身勝手を自らに許さないことでもあるので、双方の精神的成熟と経済的自立が最低必要条件にはなるとは思うけれど。