ロレッタブログ

にゃんの遺影 - 2014.07.14

みなさまたくさんのメッセージやお電話をどうもありがとうございました!
半野良だったにゃんはほんとうにたくさんの人に愛された子でした。お骨になったにゃんは、無事我が家に帰ってきましたよ。それでもまだいつもの爪とぎ板のところや、ソファのあたりにいそうな気もして、いなくなったことにまだ慣れず。不思議なものですね。お骨をこれからどうするか、相方と話し合いながら決めていきます。
そして、遺影は相方が撮影したこの写真にするつもりです。

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ロレッタはお寺のすぐ隣ですが、そういえばお寺や神社・お墓のそばを通ることすら怖がる人っていますよね。生きているものよりも、死んでくれているほうがよほどましだと思うのですが。死んでいる人はいじめも恫喝もしないし、手をあげることもなく、嘘もつかない。セクハラもパワハラもしなければ、メンヘラでもない。むしろお墓があるということはその人の死を悼む周囲に支えらえていた証。そしてお寺や神社などは他者のためにひたすら祈り続ける人たちが集う場所なのですから、恐ろしいどころか素晴らしい場所ではないかと思うのです。何が怖いものか。死人よりも生きている人間のほうがよほっぽどたちが悪くて恐ろしいですよ。

そしてお寺や神社、お墓に教会やお祭りごとの一切もある日突然無くなり消滅してしまったら、なんとも味気なく感じられるのではないかと思います。そうしたものが生活の景色の溶け込んでいる様子が、多くの日本人にとっての宗教とのかかわり方や距離感を表しているような気がします。
そういえば、このお話をしたら植島先生も「(お寺と神社のそばを嫌がるなんて)なに言ってるんだよ。僕は引っ越して住むなら絶対お寺か神社のそばって決めてるけどね」らしいです。

生きるチカラ/植島啓司/集英社新書
「つまり、ぼくがずっと気をつけていることは、なにより、あまり「不幸」を拡大解釈しないことである。ぼくはこれまでにも、人生ではだれの身にも公平に起こることを不幸とは呼んではいけないと強調してきた。そういう意味では、年をとって、病気になり、やがて死ぬという運命を呪ったりするのはばかげたことである。それは生き物としてごく当たり前のことであり、不幸でもなんでもない。もしかしたら、それこそ手に持っているだけで安心できる最期の切り札なのかもしれない。年をとってからさらに100年も生きるのはまっぴらごめんだが、そうはいっても、若く未熟なまま200年生きるというのも考えるだけでうっとうしくないだろうか。
年老いてからの深遠な知恵と輝くような若さとか共存できたらベストだけれど、そういうわけにもいかない。そのどちらかを選べと言われたら、当然のように知恵をとるのはこちらが年をとった証拠だろうか。そこそこ健康な身体ではいたいけれど、もう若さはいらないし、そんなに長生きしたいともおもわない。身体に多少の故障が出るのは仕方ないけれど、ひどい痛みさえなければそれも我慢できなくはない。そもそも長生きしていったい何をしようというのだろうか。
むしろ死があるからこそ老いは輝きを増すのである。人生はうんざりするほど長い。終点に近くなればなるほと、人生は豊かさを増すことになる。なにより、老いのもっともすぐれた点は、その人が持っている能力をだれにも簡単には譲り渡せないということではないかと思う。どんなにすごい才能があっても、その人が死ねばすべてが無に帰すという潔さ。それこそ人間のもっともすぐれた特性の一つではないかと思われる。なるべく自分を世界の側にゆだねて、つまり、自分中心の世界観から逃れて、ゆったりと死をまつのもそんなに悪いものではないだろう。」