ロレッタブログ

依存対象は心の松葉杖 - 2020.06.30

薬物、アルコール、たばこ、カフェイン、砂糖や高脂質食品などジャンクフードの「物質」、万引き、過食、拒食、買い物や浪費などの「行動」、カルト、宗教、共依存などの「関係」など、依存になる対象はさまざまです。

運動できない言い訳をいつも探してしまうけれど、甘いものや油っぽいものは頻回に買うことも食べることもやめられないし、飲み会のアポは運動よりも優先順位が高くて、お金を使うなら自分の健康よりもやっぱり買い物!という人は、自己管理の問題とか危機感の欠如もありますが、「ひとときのリフレッシュや支えだったものが、依存的な習慣になってしまったのかな?と思うこともしばしばです。

ストレス耐性の違いもあるかもしれないけど、長期的なリスクよりも、短期的なメリットのほうを優先してしまうぐらい、物事の優先順位があべこべになっているような印象です。長期的なデメリットよりも目先の快楽に執心してしまうということは、それほど強いストレスがかかっているのかもしれません。治療が必要なレベルの依存症は「生きる上での優先順位が変わってしまうこと」らしいですが、グレーゾーンの人は少なくない、と感じています。

治療が必要なレベルの依存症になるか否かかに関わらず、周囲が声掛けしてあれこれ提案したところで、つきつめれば全ては本人次第、ということがとてもよくわかります。周囲ができることは本当に少ないんですよね・・・。

依存症になるかどうかは、単純に使用期間が長いからといってなるものではなくて、使用量やその人の状況、使用に至るまでの背景、体質などもかなり影響しているのだそうです。なりやすい性格や思考のタイプは、ストレスを感じやすい人、他人を頼れず一人で抱え込んでしまう人、人間関係でこじれている人、完璧主義で満足感を得られない人、多忙すぎるなどによるメンタルの問題に対し、依存対象で解消したときの快感が大きい人の方がなりやすいそうです。孤立や虐待などの辛い状況にある人は、そうした状況を経験したことがある人ほど重症化しやすいと言われているそうです。

女性は40代後半ぐらいからのアルコール依存、買い物依存、摂食依存、整形依存、共依存(夫、子ども、親、スピリ系)が多いかな?という印象です。コロナ禍でますます増えると予想しているので、お気をつけくださいね。

下記の文章の「薬物」を、「ストレス状況下でつい自身がとってしまう行動や対象物」を当てはめて読むと納得したというかたもいらっしゃるのではないかと思います。少し長いですが、「いい加減どうにかしなければ」と考えている人は、ぜひどうぞ。松本俊彦先生の新書「薬物依存症」より。

前にも述べましたが、薬物を「やめること」は簡単です。どれだけ重症の薬物依存症患者でも何度も薬物をやめています―数日、あるいは数時間というオーダーですが。むずかしいのは、「やめ続けること」です。なぜむずかしいのかといえば、おそらくその薬物は一時的には「心の松葉杖」として機能し、自分を助けてくれていたからです。

実際、依存症患者の多くが、アルコールや薬物の使用量が増加した時期には、何らかの苦痛を抱えたり、現実生活で困難に遭遇したりしています。そして、そうした苦境を乗り越えるのに、アルコールや薬物などの中枢神経作用薬は確実に、一時的には役に立ったはずなのです。また、それらはその人が抱えていたコンプレックスや生きづらさを一時的に解消し、彼らが長年悩んでいた弱点を補ってくれたはずなのです。さらには、中枢神経作用が引き起こす苦痛のおかげで、自らを圧倒する強大な苦痛を紛らわせ、一時的に生き延びさせてくれた可能性さえあるのです。

薬物を止め続けるということは、そのような「心の松葉杖」を手放し、筋肉が萎縮しきったひ弱な脚で歩き続けることを意味します。つまり、思うに任せぬ脚のもどかしさに耐えながら、杖なしに紆余と起伏に満ちた悪路を進むことに他なりません。回復の過程でたびたび薬物の再使用がくりかえされるのはまさにこういった事情ゆえのことなのです。その意味では私たち援助者が薬物依存症者に問いかけなければならない質問は、「その薬物はあなたにどんなダメージを与えたのか」だけでは不十分です。その質問に加えて、「その薬物はあなたにどんな恩恵をもたらしてくれたのか」と問いかけることこそが重要なのです。そして、治療や援助とは、その「恩恵=心の松葉杖」の代わりになる、健康的で安全な「心の松葉杖」を探し出し、提供することに他なりません。

こういいかえても良いでしょう。「薬物依存症の回復支援とは、薬物という「物」を規制・管理・排除することなく、痛みを抱える「人」の支援なのだ」と。

依存症(アディクション)の治療は繋がり(コネクション)とされるゆえんですね。さらに松本先生によると、依存症の回復は「脳の酔い」と「心の酔い」の2つにわけられるのだそうです。

問題になるのは、「心の酔い」を覚ますプロセスなのです。こちらは時間がかかりますし、容易ではありません。長いあいだ、「気分を変える物質」に酔った状態で生きるのが習慣化していると、自分でも気づかないうちに、物の考え方や感じ方に独特の変化が生じています。その変化を分かりやすい言葉で表現するのはとてもむずかしいですが、思い切って単純化していえば「自己中心的、ひとりよがり、あるいは、周りが見えない考え方、感じ方」といったところになるでしょうか。

実は、この「心の酔い」に近い状態は、私たちもアルコールに酩酊している時に一時的に経験しています。たとえば、アルコールを飲むと気が大きくなって、まわりの空気も読まずにはしゃいでしまったり、ふだんはあまりしない自慢話が多くなったりします。また、嫌な気分を紛らわすためにアルコールを飲むと、大抵は不機嫌な酒飲みになって、自分のことを棚上げして上司や同僚のこき下ろしを始めます。そのとき私たちは、あたかも「世の中で一番優れているのは自分だ」という傲慢な考え、あるいは、「世の中一番苦労しているおは自分だ」といわんばかりの自己憐憫で頭がいっぱいになっています。

お酒を飲むと説教話や武勇伝に拍車がかかるタイプとか、自分が暇を持て余していれば「食事に行きましょうよ」と誘って断られると気分を悪くするが、ひとたび自分が忙しくなったらたちまち「お茶とかさそわれてもめんどいのよね」となる自分勝手ぶり、みたいな感じでしょうか?

うちのお客様はどちらかというとバリバリ働いている方が多いので、そもそももとから「女子会とか不毛だから誘わないでほしい」というタイプが多いですが(笑)。

こうした物の考え方、感じ方が、酩酊時だけではなく、しらふのときにも持続した状態が、「心の酔い」なのです。

依存症の人の中には、日常的に薬物の酔いの中で生活するうちに、知らず知らずのうちに、こうした酔った時独特のものの考え方、感じ方が心の奥深くに根を下ろしている人が少なくありません。そしてそのせいで、いつも周囲と自分を比較しては怒りと嫉妬に悶え、周囲からの評価ばかりを気にして、自信過剰(傲慢さ)、と自信喪失(自己憐憫)の両極を激しく揺れ動いています。これが「心の酔い」の状態なのです。この状態のままでいると、周囲の人間を、ともすれば「敵/味方」「あちら側/こちら側」のように敵対的図式で捉えがちになり、周囲との衝突や軋轢を生じやすく、怒りや嫉妬の感情に圧倒されやすくなります。これらはいずれも薬物欲求を刺激するものです。

自助グループにはこのような「心の酔い」からの回復を促す力があります。自助グループのミーティングにおける、「言いっ放し、聞きっ放し」(ほかの参加者の発言を決して批判してはならない代わりに、自分の発言も誰からも批判されない)というスタイルに、その効力の秘密があるのでしょうか。

実際、それがうまくいった人たちもいます。私がこれまで担当してきた薬物依存症患者のなかには、そのようにして治療の早期にNAにつながり、日中は正社員として仕事に就きながら、週一、二回ほど夜のNAミーティングに顔を出すことで、数年以上におよぶ断薬を維持している人が何人かいます。こうした人たちは、薬物を使わない生活の中で様々なストレスに遭遇しても、ミーティングで自分の気持ちを吐き出すことで気持ちのバランスをとり、日々のストレスが薬物再使用へと発展しないように対処しています。

依存症とまではいかなくても、「コミュニケーションに問題を抱えている人あるある」ですよね。つづきは明日。